デイヴ・ガーン



デヴィッド・ガーン(David Gahan 1962年5月9日生)
 [イングランド・ミュージシャン]


 エセックス州エッピング出身。デイヴは労働者階級の家庭に生まれる。が、1歳にならないうちに両親が離婚。2年後に母親と、2歳年上の姉と共に同じエセックス州のバジルドンに移り住む。のちに母親はジャック・ガーンと再婚、2人の弟が生まれるが、ジャックは連れ子のデイヴらも実の子供のように扱った。しかしジャックは1972年、デイヴが10歳のときに死去する。その後のデイヴは無免許運転など荒れた生活をするようになり、14歳の頃には少年裁判にかけられたこともあったという。1978年に学校を卒業した後、職を転々とした末に芸術学校に居場所を見つけ、デイヴは3年間を過ごすこととなる。

 デイヴは地元のミュージシャンと共にデヴィッド・ボウイの『英雄夢語り(ヒーローズ)』をセッションしていたところ、それを耳にした地元のバンド「Composition Of Sound」のヴィンス・クラークの注目を引き、デイヴをバンドに招き入れる。バンドは『デペッシュ・モード』と名前を変え、1981年にインディーズ・レーベルのミュート・レコードからデビュー。その後メンバーの変遷などを経ながら四半世紀以上に渡り活動し、9000万枚以上のシングルとアルバムを売り上げ、欧米を中心に大きな支持を集めるバンドへと成長した。デイヴのミュージシャンとしてのキャリアと過酷な人生経験を経て深みを増していったバリトンの声と、絞り込んだ肉体を艶かしく動かすパフォーマンスは、大衆的なものとカルト的なもの双方の要素を持った人気を得ている。

 デイヴの私生活はデペッシュ・モード内では最も派手だったことがある。デイヴは3度結婚し、2度離婚。今は3番目の妻と生活している。そして何より深刻だったのはロサンゼルスで生活していた頃のドラッグにまつわる一連の事件である。デイヴのドラッグ癖は十代のころまで遡る。デペッシュ・モード活動後もバンド内では半ば黙認されていたが、中毒が酷くなったのは丁度アルバム『ソングス・オブ・フェイス・アンド・デヴォーション』の頃である。この頃にはデイヴは自らを「ロックンロールスター」であると認識し、ツアーでは常にドラッグの売人やドラッグを目当てにした取り巻きに囲まれていた。思考も異常をきたしており、かのカート・コバーンの自殺に際しては「自殺のアイディアを盗まれた」と考えたほどであった。そしてデイヴの友人でもあったアラン・ワイルダーがデペッシュ・モードを脱退した後、事態はさらに悪化、デイヴは狂言自殺を試みる。やがて1度は更生施設に入るものの、この時は単に中毒症状を軽くするためのもの程度に考えていた。

 やがて2度目の離婚、強盗被害などを経て、再度更生施設へ入り退所までこぎつけた矢先の1996年5月28日、電話で母親から「懲りずにまたドラッグを繰り返すに決まっている」と言われたことにショックを受け、ホテルのバスルームでヘロインとコカインの混合物(スピードボール)を大量に注射し、手首を切って自殺を図った。友人がデイヴの身を案じてホテルの部屋を尋ね、意識を失ったデイヴを発見し通報、病院へと搬送された。救急車の中でデイヴの心臓は2分間止まり、彼は臨死体験をしている。奇跡的に一命は取り留め、ドラッグの大量摂取と心停止による後遺症が心配されたが、幸いにも影響は無かった。しかしその代わりに待っていたのはドラッグ摂取による逮捕状であった。裁判の結果9ヶ月のリハビリを命じられ、これを達成。適切な治療とリハビリの結果、今のデイヴは見違えるほど健康体になっている。以来、長年使用していた薬物と縁を切り、3番目の妻と共に住んでいたロサンゼルスを離れニューヨークへと移った。


<<重要なお知らせ>>

@peps!・Chip!!をご利用頂き、ありがとうございます。
@peps!・Chip!!は、2024年5月末をもってサービスを終了させていただきます。
詳しくは
@peps!サービス終了のお知らせ
Chip!!サービス終了のお知らせ
をご確認ください。



w友達に教えるw
[ホムペ作成][新着記事]
[編集]

無料ホームページ作成は@peps!
無料ホムペ素材も超充実ァ