有馬頼義


有馬頼義

有馬頼義(ありまよりちか 1918年2月14日生)
 [小説家]


 伯爵有馬頼寧の三男として東京に生まれる。母貞子は北白川宮能久親王の第二女王女子。兄2人の早世と病弱により早くから伯爵家を嗣ぐことを決められる一方、有馬家と母の実家・北白川宮家の複雑な家庭環境を肌で感じる多感な幼少期を過ごした。学習院初等科卒業。野球に熱中し、成蹊高等学校を中退。早稲田第一高等学院に入って小説を書き始め、在学中の1937年に短篇集『崩壊』を上梓。1940年に兵役に就いて満洲に渡る。3年間の軍隊生活を経て帰国後、同盟通信社社会部記者となる。1944年、『晴雪賦』によって第4回国民演劇脚本情報局賞受賞。

 雑誌への投稿により、1950年に『河の唄』で『改造』第1回懸賞選外佳作入選。1951年、『皇女と乳牛』で『文藝春秋』懸賞入選。1954年、同人誌「文学生活」に発表した作品を集めた『終身未決囚』が認められ、表題作により第31回直木賞受賞。この後『別冊文芸春秋』『オール読物』『面白倶楽部』などに旺盛に作品を発表。1956年「三十六人の乗客」以来推理小説も書き、『貴三郎一代』は型破りな初年兵を主役にした悪漢小説的な作品で、のちに『兵隊やくざ』の題で大映で映画化されて大ヒットし、シリーズ化もされた。1959年、『四万人の目撃者』で日本探偵作家クラブ賞受賞。賞に推された際は、野球小説のつもりで書いたとして辞退していたが、江戸川乱歩の強い薦めにより賞を受けた。

 1972年5月、川端康成の死に誘発されてガス自殺未遂を起こし、作家で医師の渡辺淳一が応急手当をしたこともあり、一命は取り留めたものの、以後はいくつかの随筆を書いた程度で執筆活動から遠ざかった。遺族の証言では、以前から極度の薬物依存症であったのが原因と言われる。また1971年の『小説現代』8月号に発表した『カストリ雑誌前期』において、そこで引用した匿名の小説について「作者の創作でなく盗作である。盗作の事実を認めず慰謝料を払わなければ新聞沙汰にする」との脅しを受け、内密に約100万円の慰謝料を支払わされたことがあり、自殺未遂にこの事件が尾を引いているのではないかと言われている。

 晩年は家族・知己・文学関係者との繋がりもほとんど絶って隠棲していた。1980年4月15日、脳溢血で死去。


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